閏月事件 補遺
『閏月事件』に関する小説一覧。
「彼岸花」
9月頃に開花する赤い花。
球根には毒性があり、葉は花が咲き終わってから成長する。
梵語で「紅色の花」、サンスクリット語で「天界に咲く花」を意味する「曼殊沙華」とも呼ばれる。
***
ピー。
機械的な音で、現実へと戻される。
目を開けると、窓のない真っ白な世界。
天井も、床も、テーブルや椅子、ベッド、ノートパソコン、ドアまでもが白く塗りつぶされた部屋。
その中に唯一色があるのは、自分の黒い服と傍らの煙草に添えられた赤色のライターだけだった。
起きざまに、場違いなほど赤いそれと真っ白なパッケージの箱に手を伸ばし、火をつける。
白い煙が立ち上り、LEDライトに照らされた影を縫うように、天井へと気体の糸が伸びていく。
――これがあるということは、奴らからの依頼だ。
先ほどの音は、パソコンからのメール通知音だった。
慣れた手つきで操作し、最新のメールを開く。
そこには、1枚の画像と簡潔な文章。
『調査要請:EC013対策本部 日本支部 調査課 ジンセキ ハジメ殿』
『某県某市某所にて、エラーコード:013(以下「エラー」とする)の発生を確認。』
『直ちに現地に赴き、エラーの内容を調査・報告すること。制圧および保護は管理課が担当する。』
ため息と同時に、たっぷりと煙を吐き出す。
このやり取りも何度目だろうか。期日を過ぎると強制的にメールは削除されるため、履歴をたどることもできない。
――パソコンが導入される前は手紙だったか。
煙草の煙が白い天井に漂うのを見つめながら、過去の依頼を思い出す。
この白い部屋で目を覚まし、異常存在「エラー」と対峙してきた数。
最初の頃は数えていたような気もするが、面倒になって当の昔にやめてしまった。
デコードされる以前のことは、ほとんど忘れてしまっている。
全ては死の規制による弊害。
生を贖罪とする者の対価。
静かに席を立ち、ハンガーにかけられた白衣へ腕を通す。
煙草を持ち出そうとしたが、職場内は禁煙であることを思い出し舌打ちしながらテーブルに戻す。
そのまま灰皿を見やると、燃え尽きた煙草は5本をゆうに超えていた。
***
白いドアの向こうには、夜の光が小さく瞬いていた。
月は満ち、明かりがなくとも夜道はほんのり明るかった。
指定の場所に向かうのにそう遠くはない。
街灯の陰に紛れながら、散歩のように目的地を目指す。
……静かだ。
あたりは寝静まったように音を立てず、耳に届くのは虫の羽音のようなノイズだけだった。
外気を感じられるほんの数分間。
それにすら、喜びや悲哀は感じない。
もう、そういうものだと体が覚えてしまっている。
何をしても無意味であることを。
自分の選択は、この世全てに影響を及ぼさないということを。
***
目的の木造アパートにたどり着き、104号室のきしむドアをノックもせずそっと開ける。
窓の月明かりに照らされ、何もない和室で男は静かにこちらを見ていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
からから。
マニュアル通りの言葉を発すると、男はすんなりと返事をした。
そのまま次の工程に移ろうとすると、男は続けて言葉を発した。
「あなたが来るのを待っていました」
からから。
「……」
「知っています、デコードされたんでしょう、あの組織に。EC013対策機関に」
からから。
彼の声は冷たく、そして乾いていた。
そこには同情も羨望もなく、ただ事実を述べていた。
「……」
答えてはならない。
マニュアル以外の行動をとるのは禁じられている。
ただ、反応が終わるのを待つ。
「あなたが死を望んでいることを、私は知っています」
からから。
「でも不可能です。なぜなら」
からから。
からから。
からから。
からから。
「彼岸はあなたに死を与えることはないからです」
どしゃ。
言い終わると同時に、男は倒れた。
月明かりが示したのは、男に首がないこと。
そして、男の首があるべき場所に、大きな風車が刺さっていたことだけだった。
***
「調査報告書:風車の男」
対象は、周囲に影響を及ぼすことなく消えた。
リロードを行っても再び現れることはなかったため、対象が根源であることで間違いないと思われる。
今回は声をかけることで言葉を発して消滅した。
その他の行動は未確認。
***
報告書をパソコンに打ち込み終えると、煙草の煙をぼんやりと眺める。
彼の風車は、風もないのにからからと回り続けていた。
――人はなぜ、不可解なものに理由をつけたがるのだろう。
そう思いながら、IPの存在しないパソコンを使って断片的な情報を拾い集めた。
「首 切断 事件」
「某日某所にて、40代男性の遺体が発見された。遺体の一部である頭部はまだ見つかっていない――」
自分のいる世界がこの世と少しずれていることは、今までの生の中で何となく察しはついていた。
本来なら、あの場所に自分が行くことはできないはずだ。
事件が発生して間もないうちに警察なり記者なりがあの場にいないはずがない。
だが、エラーは存在する。
この世の理に反して。
この世の理をずらしながら。
故に、理を外れた「俺」が呼ばれる。
――本当に、不可解だ。
風車の音は、まだ耳に残っている。
あの言葉も。
「彼岸――」
彼は彼岸に死を与えてもらったのだろうか。
俺の何を知っていたのだろうか。
エラーは何も俺に教えてくれない。
死すら与えてくれない。
ただ不可解な現象を残して、消える。
「……」
話し相手もいないこの部屋で、何かを考えるのは悪手だ。
もう何度発狂して強制リロードさせられたかわからない。
そのままベッドに倒れ込む。
目を閉じると、またあの音が脳裏をめぐる。
からから。
からから。
からから。
――あの風車は、やけに赤かった。
そんな思考がよぎると同時に、意識はまどろみの中に連れ去られていった。
***
「Re:調査報告書:風車の男」
仔細確認済み。
諸君の行動のみで対象が消滅したのは僥倖であった。
しかし、対象に関する私的な詮索は無用である。
今後もし不審な行動が確認された際には、パソコンを利用した連絡手段を制限することになる。
罪深き諸君に必要なのは、目の前のエラーの調査情報のみであることを忘れないように。
――追伸[検閲済み]
「モルヒネ」
アヘンに含まれるアルカロイドの一種。
強い麻酔・鎮痛作用があり、中毒性があるため日本では麻薬に指定されている。
***
「げほごほっ!おぇっ……」
肺に酸素を送るべく、溜まった水を吐き出しながら肩で必死に息をする。
まだ、生きている。
それがいいことなのか悪いことなのか、私にはわからない。
後ろであの人の怒鳴り声と、依子の泣き声が聞こえる。
しかし、耳にも水が入っていてよく聞こえない。
ずっとそうだったらいいのに、とも思う。
だがそれは私を解放してはくれない。
髪を掴まれ、再び浴槽の水と対面する。
抵抗する術は、私にはない。
ここで生きている限り。
ぼんやりとした意識と耳鳴りの中、あの日のことを思い出す。
***
「――紙屋さん」
優しく、落ち着いた声。
顔を上げると、西陽に照らされたカーテンが目の前をひらりと揺れた。
その向こう側には、静かでどことなく寂しそうな目が私を見ていた。
「もう6時過ぎてるよ」
「あ……はは、そっか」
ぎこちなく照れ笑いで誤魔化す私に、彼はふっと微笑みかける。
時々私は、その目に吸い込まれてしまうのではないかと恐ろしくなることがある。
でも、その恐ろしさはどこか心地よいものでもあった。
「望月くんは帰らないの?」
「うん、まだ母さんが帰ってないだろうから」
「……あ、今日だったっけ」
「そう、あれの日」
毎月第二月曜日は、あれが来る。
私たちはあれの名前を言葉にはしないようにしている。
もし口にしてしまうと、本当に来てしまうような気がするから。
それは、祈りの日。
教祖と信徒の前で己の業と向き合い、時が心と体を癒してくれる時を待つ。ただ、ひたすらに。
――それが、まほろ教の教え。
私と彼――望月くんは、共通点が何かと多かった。
片親であること。親がまほろ教の信者であること。
一朝一夕で得られた情報ではないが、どことなく同じ空気を纏っていることは出会った当初からなんとなく感じていた。
幸いなことに、今の学校では陰湿ないじめを受けずに済んでいる。こちらに寄って来る人間もいないが。
ゆえに、今の望月くんと過ごすこの夕暮れが、今の私にとってはとても尊いものであると感じている。
――望月くんも、そうだったらいいな。
「……」
お互いに話すことは少ない。だが、この無言の時間さえも心地よい。
どれくらい時間が経っただろうか。ふいに望月くんが口を開いた。
「紙屋さん」
「うん?」
「結果が出たんだ」
結果。
それは、本当は今一番聞きたくない単語だった。
けれど、私たちに運命は変えられない。
なるべく自然に振舞いながら、聞き返す。
「……どうだった?」
望月くんはそっと目を伏せた。自分の指を見つめながら、ぼそっとつぶやく。
「……確定だって」
「……そう、そっか」
無理やり笑顔で相槌を打つ。
これは仕方のないことなのだ。
喜ばないといけないことなのだ。
これは嬉しいことなのだ。
「望月くんのお母さん、すごく、楽しみにしてた……もんね」
言いながら、自然と涙が出てきた。
望月くんが、あちら側に行ってしまう。
私を置き去りにして。
それは、決められていたこと。
だけど、本当はそんなの――。
「紙屋さん」
「……うん」
「僕はあんなところに染まったりしない、絶対に」
「……」
「……」
沈黙。
先ほどまでの浮ついた気持ちが嘘のように重い。
苦しい。
でも。
「ありがとう、望月くん」
「紙屋さん」
「私ね、この放課後の時間が好きだったよ。望月くんと一緒に居られるこの時間が」
「紙屋さん」
「だから、その」
「――成美ちゃん」
思わず、彼を見る。涙でぼやけた視界に、彼の強い眼差しが映る。
「もし僕があの施設に行って変わってしまったら、僕のことは忘れてほしい」
「……」
「でも、もし変わらないでいられたら、僕と一緒に遠くへ行こう」
「……!」
「君の好きな、彼岸花がいっぱい咲いてるところに行こう。何も考えなくていい、今みたいな時間がずっと過ごせるようなところに行こう」
「……」
「……」
そんなの無理だよ、と叫びたい感情を必死に押さえつける。
父親も、依子も、私を置いていってはくれない。
――でも。
望月くんの目が、あまりにも優しく、真剣だったから。
この眼差しを、私は一生忘れない。
涙を腕で拭き、彼を見る。
「……わかった」
「ありがとう、待っててね、成美ちゃん」
「うん。絶対待ってる。約束だよ――昭くん」
***
ごぼごぼ。
ごぼごぼ。
……。
「ぶはぁっ!」
空気がある。
必死に生に縋り付く。
「こんの馬鹿女が!お前どんだけ迷惑かけたと思ってんだ!昭様にとんだ無礼を……」
「うわあああん!うわああああん!」
「うるせえぞ!黙ってろ!」
「やめ……」
キイィィーーーィィイン。
途中から耳鳴りであの人たちの声が聞こえなくなった。良かった。
私はここで死ぬのだろうか。
手はあの人に掴まれていて動けない。
私はここから、動けない。
本当に?
目の前には、まほろ教のマークが大きく描かれた壁紙。
――半分の太陽。
彼の背中にあったもの。
逃れられない刻印。
***
カアカア。
「望月さんちの所の息子さん、学校辞めるんだってねぇ」
「成績もすごく優秀だったから、選ばれて良かったわねぇ」
「お母さんもさぞ鼻が高いでしょう」
「ああうらやましい」
「うらやましい」
カアカア。
***
「――おねえちゃん、おねえちゃん」
体に揺れを感じ、目が覚める。
濡れた髪が視界を黒く染めている。
まだ私は、生きている。
寒い。震えが止まらない。
「依子……」
重い体を無理やり持ち上げ、まだ幼い妹を抱きしめる。
温かい。
その温かさに安堵する。
しかし。
何かがおかしい。
――なぜ、私は生きているんだろう?
「依子、お父さんは――」
視界を覆っていた髪をかき上げたその刹那、心臓が凍り付く。
赤い。
青いタイル張りの浴室が、真っ赤に染まっている。
傍らには、かつて人間だったもの。
そして、依子の手もまた、真っ赤に染まっていた。
「おとうさん、動かなくなっちゃった」
「なん、で……?」
「おとうさんが好きなおひさまのひとが来てね、おとうさんにあれをわたしなさいって言ったんだよ。だから言うとおりにしたんだ」
「え……」
再び、父親だったものを見る。
まだ、人の姿をしている。
その手の中には、彼岸花……ではなく。
――赤い風車が握られていた。
「……依子、立てる?」
「うん」
「今からお出かけするから、準備しようか」
「え!スーパー?公園?」
「うん。今日はどこにでも行けるよ。だからおててきれいにして、お着替えしようね」
「やったー!」
喜ぶ依子を眺めながら、体を拭くものを探す。いつの間にか震えは収まっていた。
――ああ。
ありがとうございます、■■様。